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プロフィール アーカイブ

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松山 数夫

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五木 ひろし(いつき ひろし、本名:松山 数夫(まつやま かずお)、1948年3月14日- ) は、
日本を代表する歌手のひとりである。人気と実力を併せ持ち、還暦を迎えた現在もなお、
第一線で活躍する。作曲家、俳優でもある。2007年、紫綬褒章を受章した。
福井県三方郡美浜町出身。所属事務所はアップフロントエージェンシー。

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1970年(昭和45年) の五木さん

“三谷謙”名義では、シングルを一枚発売するもヒットに至らず。 デビューしてからの約五年間は、この間に二度も芸名を変更するなど不遇の時代を過ごす。

オーディション番組「全日本歌謡選手権」(よみうりテレビ制作)に、歌手生命のすべてを賭けてミノルフォン専属のプロ歌手“三谷謙”として出場。 第1週挑戦時には、「これで駄目なら、ふるさとの福井に帰って農業をやる」と悲壮な覚悟の程を語っているが、最終的には10週連続で勝ち残り、グランドチャンピオンに輝く。 これにより、レコード歌手として再デビューできる権利を獲得。

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五木寛之から・・・

山口洋子が五木寛之から苗字を頂戴し、新しい芸名を“五木ひろし”と命名。

山口洋子は“五木ひろし”としてのデビュー・シングルのために単語の羅列ながらも、女ごころを表現した詞を書き、平尾昌晃がそれにモダンでソフトな演歌調の曲を付ける。 ロカビリー歌手から転身した作曲家の平尾昌晃(歌手時代の名義:平尾昌章)にとって、演歌作品はこれが初めて。

3月、“五木ひろし”を芸名として、ミノルフォンから「よこはま・たそがれ」で再デビューを果たす。

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腰をシェイク

マイクを左手で持ち、右手は拳を握り締め、腰をシェイクさせてリズムを採る独特の歌唱スタイルは、同じ野口プロモーションに所属していたキックボクサー・沢村忠の“ファイティング・スタイル”からヒントを得たもので、物真似をされるほどに五木の代名詞(トレードマーク)として定着してゆく。五木は「“拳”は演歌の“コブシ(小節)”を斯けている」と語っている。

「よこはま・たそがれ」はオリコン・シングル・チャートで、最高位1位、登場週数46週、65万枚に迫る売上げを記録(以下、文中のチャート・データはすべてオリコン・シングル・チャートに基づく)し、幸先の良い再スタートを切る。

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スマッシュ・ヒット

第三弾シングル「かもめ町みなと町」は前作同様にマドロス演歌ながらも、敢えてアイドル歌謡を中心に手懸けて実績を残しつつあった筒美京平を作曲に迎え、最高位11位、登場週数18週、15万枚を超える売上げを記録。

第四弾シングルとして藤本卓也を作曲に迎えた「待っている女」は、ポップス演歌とプロモーションされ、最高位6位、登場週数22週、25万枚を超える売上げを記録。

ポップス演歌第二弾となる「夜汽車の女」は、前作の続編的性格を持ち、スマッシュ・ヒットに終わる。

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多忙でした

ほぼ毎日放送されていた歌謡番組は大半が生放送であったため、五木は決してアイドルではないにも拘らず、連日各放送局を掛け持ちで出演するなど多忙を極める。

その都度、特徴的な人懐っこい“細い目”を再三に亘り司会者などから茶化されるが、それを五木は軽妙に切り返して笑いを誘うなど、コミカルな部分をも持ち合わせていた。
物真似番組にも数多く出演し、チャンピオンに度々選抜される。
テレビに限らず、ラジオ、新聞、雑誌などマスコミ各社からひっぱりだことなるなど人気を博す。

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譲りました。

当時の新聞や雑誌には、一連の騒動について、“買収”や“札束が飛び交う”、“札束攻勢”などと書かれていたそうです。

最終的には、前年に大賞を獲得している五木さんがまだ受賞していない「最優秀歌唱賞を欲しい!」と宣言し照準を変更することによって、大賞候補として1968年から1971年まで4年連続でノミネートされながらもすべて逃しているところから「今度こそは何が何でも大賞を!」と意気込む森さんに大賞を譲ったものといわれています。

何だかんだで仲良しですね。
ライバル友ですね^^